これだけは読んでほしいガチな記事

人が覚醒するための秘密が『This is me』の動画の中にありそうなので、本気で分析して言語化してみたら2万字超えになった

この記事は、『やまけんのSNSでは書けないことを書く変なメルマガ』で、2020/11/22に配信した「彼女なぜ覚醒したのか?〜人の覚醒生み出す2つの要素について〜」というメルマガを大幅に加筆した内容です。

 

こんにちは、やまけんです。

いきなりですが、この動画って見たことありますか?

 

「ヒュー・ジャックマンも感涙!映画『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」ワークショップセッションの様子」↓↓↓

 

『グレイテストショーマン』というの大ヒットした映画における主要な楽曲の一つの「This is me」という曲をについての映像です。


ワークショップセッションとなっていますが、これは映画の前の台本の読み合わせみたいなものでしょうか。映画に出る俳優たちが集まった、歌を合わせるいわば(重要な)稽古・練習の場ですよね、多分。

で、結論を先に言っちゃいますが、このワークショップセッションの”最中に”、「This is me」を歌うキアラ・セトルという女性が「覚醒」します。映画を見てなくてもこの5分弱の動画を見ただけで、「泣いた」って人をいっぱい知ってるんですが、めちゃくちゃ感動する映像です。

ぼくなんかはもうこの動画を見つけた2ヶ月ぐらい前から数えて、もう100回以上見たんじゃないかな。それぐらいぼくにとっては「中毒性がある」動画だったわけです。この映像にぼくが今現在どのぐらい影響を受けてるかっていうと、これから執筆し始めるぼくにとっての処女作となる本(天才性の伸ばし方についての内容)を、この”映像みたい感じ”にしたい!と真剣に思ってるぐらいです。だからぼくが書いた本を読んだ人の”読後感”が、この映像を見た後の気持ちみたいになるにはどうすればいいか、ってことをずーーっと考えてます。

その答えを知るために、穴があくほどこの動画を見ました。キアラにかけられた人を覚醒させる「魔法の正体」と、何回見ても飽きずに感動できるこの動画の中に詰まっている「感動を生むメカニズム」を解き明かしたいと思ったからです。これほど良い教材はなかなかないんじゃないかと。

 

ぼくは、プロデューサーという仕事をしています。プロデューサーといっても、映像や音楽や商品でなく「人」のプロデュースです。人の天才性を編集して、他とは被らない唯一無二の存在として売れ続ける人を生みだすことがぼくの仕事の目的です。その中でまず大事になるのが、人に隠れた「天才性の種」を見つけること。そしてがその種が開花するように関わることです。

これまで2,000人以上の人と膝を突き合わせて上に書いたような関わりをしてきましたが、人が覚醒するっていうのは簡単なことではありません。いろんな要因が重なって初めて起きる、ひとつの奇跡。偶然の産物です。そう思って今までやってきました。

ただこの動画の中に詰まっている要素を一つ一つひろいあげて言葉にできたとしたら、ぼくがこれまで極めて属人的に感覚的にやってきた、プロデューサーとして天才性を開花させて覚醒に導く関わりが、もうちょっと「見える化」できる気がして。見える化ができたとしたら、ぼく自身にとっては今後より意識的に自分の果たすべき役割を果たせることにつながりそうだし、人の個性を伸ばすことを支援したいと思っている親・教師・経営者・上司・コーチ・コンサルなどといった指導的立場にある人にとって少しは参考になるんじゃないか。

そう思ったので、この動画を一つの教材にして、ぼくが気づいたことを言語化して解説してみようと思ったわけです。

なのでこの記事では

・人を覚醒(進化)させるのはどんな要因か?
・自信がなくセルフイメージが低い人にぼくたちはどう関わるのがいいか?
・映画や小説などで人が感動するときには何が起こっているか?
・物語の作り手はどんな技術を身につけて使えるといいか?
・人がありのままの個性を発揮できる「場」はどうすれば作れるか?
・作品がヒットする前に大事なことは何か?

といった問いに対する答えを、この動画を何回も見て言語化してみました。

ってことで、ぼくと同じように、上に書いたようなテーマに興味がある方はちょっと長いですが最後まで読んでみてください。ただ、せっかくなのでネタバレの解説を読むに、先にこの4分42秒の動画を見てみてくださいね。最低でも1回見てからの方が、この記事の内容が腑に落ちて楽しめるはずです。

 

ちゃんと見ました?(笑)
では、どうぞ!

「触媒」という存在について考える

キアラはセッションの前後で、”別人”なのかと思えるぐらい劇的に変化をしている。誰の目から見ても分かるぐらいに。この劇的な変化のことを、仮に「覚醒」と呼ぶなら、なぜ、彼女(キアラ)にここまでの変化が起こったのか?

もう一度この動画を見直して、最初に思いついたのは2:17時点からのキアラの変化。


これから曲の2番が始まるとき、立ち上がった男性に対して、”カモン”と言って煽っている。オーケストラでの指揮者のようにジェスチャーしながら。この前後でキアラが大きく変化したってことはつまり、2番の歌い出しのパートを担当した、ピンクっぽいパープルのパーカーを着た男性の存在がひとつの大きな”引き金”になってそうな気がします。彼の存在がなければ、またはこのノリノリなパーカーの男性が”一人で歌うパート”がなければ、キアラの覚醒は起きなかったんじゃないかっいう仮説です。

彼とキアラが特別に仲がいいのか、この男性が全体の中でムードメーカー的存在なのかはこの動画を見るだけでは分かりません。でもとにかく、この男性が歌い始める前からキアラのテンションは上がりはじめ、彼のパートからまたキアラの歌い出すパートに戻る2:28時点には、キアラの熱量は今までの5倍ぐらいになってるように見えます。


パーカー男子の躊躇いなく自分らしさ全開で表現するエネルギーに呼応して、キアラがこれまでは前面には出さないようにしていた感情を爆発させます。完全に自我の意識がなくなり、場と一体化した瞬間です。

 

覚醒を一種の化学反応とするなら、パーカーの彼は一種の「触媒」の役割を果たしたように見えます。あらためて触媒の定義を調べてみると、触媒とは、

化学反応の際に、それ自身は変化せず、他の物質の反応速度に影響する働きをする物質。

のことです。

触媒自体は、化学反応の前後で変化しない分、地味で果たしている役割や存在の重要性が注目されづらいけど、変化の速度に高めるのに確実に影響を与えています。ちなみに、この男性はキアラが”カモン”って煽ろうがそうでなかろうが、同じようなテンションで歌っていたんじゃないかと(そんな”キャラ”なようにぼくには見えます)思えるし、この男性自体はキアラの覚醒の前後で変化してないので、触媒の定義に当てはまっていて、その機能を果たしてると言えそうです。

本当に紫パーカーの彼がキーマンだったのか?

「ピンクパープルパーカーの彼が触媒説」について考えを検討してから、さらに何回も動画を見てみました。そしたら、別の要素も思い浮かんできました。それは、「期待がない場」と「目的の出現」説です。

 

まず「期待がない場」とは何か。キアラは0:59の歌い出し時点では、体の真正面の方向をなんとなく見ています。


ちょっと歌ったら目線を下に落として楽譜を見て、また顔を上げて前を見てまた楽譜を見ての繰り返し。表情からはなんとなくぼんやり前方を見ているけど、目線や表情からは視界に入る人たちと目を合わせてるようには見えません。

冒頭部分のインタビューで、「プレゼンの日まではマイクの後で歌っていた」「歌いながらあまりに怖くなって」と話しているように、一番目立つ存在なのに自信がなさげ。なんだったら自分を目立たないように目立たように、控えめに歌っているような印象も受けます。表情からは、人一倍感受性が強い人のように見え、佇まいや雰囲気からは冒頭の歌い出しの歌詞に「私は暗闇を知っている」とあるように、これまでの人生で数えきれないほどネガティブな経験をしたり、心無い言葉を浴びせられたつらい過去を背負って生きてきたようにも見えます。

前方と楽譜を交互に見て歌うのに変化があったのが、1:29時点↓。


画面右側(キアラから見て左)に顔を向けて数秒歌ったときの表情からすると、その視線の先にいる人たちを見て「様子をうかがっている」んでしょうか。何を感じ取っているのか、この時点ではわかりません。

ただ1:37時点でちょっと口を結んだ顔は、横顔だからはっきりとは見えないもののちょっと微笑んだように見えます↓。

そして1:44時点で今度は画面左側(キアラからすると右後ろ)にくるっと顔を向けます。


もうこの動画を見てるので視線の先にいたのは、主人公のヒュー・ジャックマンであることは分かりますが、初めてこの動画を見た人でも、歌いながら誰かここにいる人と非言語で意思の疎通をしているんだろうなっていうのは読み取れます。そして1:56時点からやっと楽譜を置いてあるマイクの位置から前に出て、会場の中心にゆっくり歩み始めます。練習ではずっとマイクの後だったと言っていたので、文字通り”一歩踏み出した”ということはキアラの中で何かの「心理的な変化」があったことは確かです。

 

じゃあ歌い出しから、彼女が一歩を踏み出すまでの1分の間に何があったのか?ぼくは「安心の確認」があったんじゃないかと思っています。ぼくもそうですが、恐い親のもとで育ったりすると、相手の顔色を見て空気を読む習慣が身につきますよね。その習慣が、怒られて怖い思いをすることから自分を守るために身につけるべき防衛手段だからです。キアラが過去にどんな経験をしてきたのか、どんな環境で育ったのかはもちろん分かりません。ただ、はじめて画面右側を見て様子をうかがっていたのは、そこいる人の顔色を見ていたんでしょう。

・そこにいる人たちはどんな眼差しで自分を見ているんだろう?
・自分が相手にどう思われているのか?
・この人たちは本当にいっさい自分に危害を加えないと信じられる人か?
・私がどんな自分を出しても受け止めてくれそうか?

こういったことを確認していたんじゃないかと。そして、彼女が「前に出ていい=目立っても大丈夫」って思ったのは、そこにいる人たちの眼差しに「無条件の愛」に近いものを感じたからじゃないかと。つまり、一番を歌いながら全部を見渡してエネルギーを感じることによって、今まで生きてきた中で数えきれない自分が感じ取ってきた好意的ではない視線とは違うということに気づいたんでしょう。それによって安心を確かめられたからじゃないかと思います。

ここで大事なのは、心では仮に全力で応援していても、それを相手(キアラ)には全面には出していないってことです。どれだけ本人のことを無条件で受け入れ、その人の魅力をよく知っていても、「期待」や「励まし」はプレッシャーになることがよくあります。頭ではこの人たちの言う通りだと分かっていても、体がまだ怖がっていて、「今はまだ」一歩踏み出せないみたいな状況があったとします。そのときに、相手から期待を感じると、その期待に応られと相手のことをがっかりさせてしまうと感じ、期待がプレッシャーになってしまうわけです。

 

ここから先に動画が進み、最初に目線を向けていた”画面右側”をカメラが写します。そこにいる「白い服を来た女性」は、ずっとキアラの方を見ながらやわらかく微笑みながら、自分もちょっぴり控えめに歌っているように見えます。


この表情や態度を見たときに(あくまでも非言語からぼくが感じた主観的な捉え方ですが)、「キアラ応援しているよ。自分をもっと出してもいいし、そのままでもいいよの。どっちにしろ私は変わらず見守ってるからね!」みたいなメッセージを感じたんです。まさに、”ありのままでいいんだよ”っていうあり方です。

ということは、なるほど、パーカー男子の前に、白いブラウスの女性が別の意味での「触媒」を担っていたんじゃないかって気もしてきました。そして彼女を含めたこの場(厳密にはその中でキアラが表情を見て様子をうかがった数人)が、「期待がない場」だったんじゃないかってことです。人が、特に繊細で感受性が高い人が、目立ったり自分を出すためには、「強い安心」を本人が実感できることが必要です。サーカスで空中ブランコのような危険度が高い技を披露するには、万が一失敗しても大丈夫なように下に安全確保用のネットが貼られている必要があるのと一緒です。安心や安全があって初めて人は挑戦に対して一歩を踏み出せるわけです。

 

じゃあ、「期待がない場」があることで一歩を踏み出すことができて、かつパーカーの彼がいたらキアラは覚醒できたのか?って考えると、まだ足りない要素があるように感じたんですね。そして次に気づいたのが、「目的の出現」です。これは何かっていうと、本人の中で自分を出すことに挑戦するための「別の動機」が生まれたことによって、視点が変わったんじゃないかと思うんです。

繊細で慎重な人は、目立つのが苦手だし感情を表に出して自分を表現するのも得意じゃないので、”よっぽどのこと”がないと自分を出すことはないと思っていて。

例えば、4〜5人ぐらいでカラオケに行ったとして、パーカーの彼のように”根明(ネアカ)”なタイプはノリノリで歌えます。でも内気な人はそもそも気が知れた友人でも4〜5人もいるとできるならば歌いたがらないし、仮に歌うにしても何の曲を選ぶのがこの場での正解なのかって考えちゃうし、歌うときも緊張しながら控えめに歌うのであって、いきなり立って踊りながらみたいな感じにはならないですよね。終盤に近づいて一気にテンションが上がる例えばリンダリンダみたいな曲で、自分以外の全員がイスの上に立って一緒に踊りながら歌っていて、自分が最後の一人になって座ったままだと逆にそっちの方が恥ずかしいから、(やっぱりまだ恥ずかしさは消えないけど)みんなと同じように立って一緒に曲にノるみたいな感じです。勘違いしてる人がいますが、必ずしも歌が下手だから歌いたくないわけじゃないんです。歌がうまくて歌うの自体はすごく好きでも、人が多くいると、そこで目立つことや自分の感情を出して表現することが苦手なんですね。繊細で慎重な人ってのはそういう風に感じるものです。

じゃあ、カラオケで言えば、まだ序盤で、全員がイスの上に立って盛り上がるみたいな”会場のテンションが最高潮”になってない状態なのに、キアラが自分を全開出せたのはなぜなのか?自分をもっと出した方がいいって監督に何回も言われたらか、「そうしなきゃ」って義務感を感じたのか。ぼくは、違うと思っていて。本人に”よっぽどのこと”っていう別の意義が生まれたから、それでスイッチが入ったんじゃないかと思うんです。そのスイッチっていうのは何かっていうと、「好きな人のために」勇気を出して自分が頑張るって視点です。

自分のためだったら、怖さしか出てこない。足がすくむ。でも、今まで経験したことがないぐらいあたたかく、やさしく、包み込むような眼差しで見守ってくれる人たちがここにいる。じゃあ、「この人たちのために」自分ができることをやろう。そう思ったんじゃないかと。

これが新たな「目的の出現」です。鬼滅の刃でいうと主人公の丹次郎が、元々気が強いタイプではなく怖がりなのに、家族である禰豆子を守るために、怖くても勇気を出して鬼殺隊になる修行にいって、逃げだしたくなり何度あきらめそうになっても、最後まで踏ん張れたのと一緒じゃないかと。ぼんやりした全体のために、役割だからだと本当の力が出ないけど、”この人ために”っていう「頑張るための理由が明確に」なることで、不安や恐れよりも勇気が上回って一歩を踏み出せる人は多いんじゃないかと思います。

本当に「場」が覚醒を引き起こしたのか?

まだ何かもっとある気がする。そこからさらに何回も見ていくと、まだ他にも覚醒を起こした要因にふと気づきまます。逆になんでこれまでそこに注目しなかったのかって思うようなこと。その要因とは「歌詞」です。

このyoutube動画で字幕についている日本語訳をそのまま引用すると、『This is me』の歌詞はこうなっています。

私は暗闇を知ってる
言われた”隠れてろ お前など見たくない”
体の傷は恥だと知った
言われた”消えろ 誰もお前など愛さない”
でも心の誇りは失わない
居場所はきっとあるはず
輝く私たちのために
言葉の刃で傷つけるなら
洪水を起こして溺れさせる
勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私
気をつけろ 私が行く
自分で叩くドラムが伴奏
見られても怖くない 謝る必要もない
これが私

心に弾を受け続けた
でも撃ち返す
今日は恥も跳ね返す
バリケードを破り 太陽へと手を伸ばそう
私たちは戦士
戦うために姿を変えた
でも心の誇りは失わない
居場所はあるはず
輝く私たちのために
言葉の刃で傷つけるなら
洪水を起こして溺れさせる
勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私
気をつけろ 私が行く
自分で叩くドラムが伴奏
見られても怖くない 謝る必要もない
これが私

私にも愛される資格がある
値しないものなど 何ひとつない
言葉の刃で傷つけるなら
洪水を起こして溺れさせる
勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私
気をつけろ 私が行く
自分で叩くドラムが伴奏
見られても怖くない 謝る必要もない
これが私

 

ここからは、少々細かな分析・解説になるのでお許しを。まずこの歌詞のサビの部分は、

言葉の刃で傷つけるなら
洪水を起こして溺れさせる
勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私
気をつけろ 私が行く
自分で叩くドラムが伴奏
見られても怖くない 謝る必要もない
これが私

で、3回繰り返されています。

そして、このサビの部分を抜くと、こんな構成になっています。

私は暗闇を知ってる
言われた”隠れてろ お前など見たくない”
体の傷は恥だと知った
言われた”消えろ 誰もお前など愛さない”
でも心の誇りは失わない
居場所はきっとあるはず
輝く私たちのために
(サビ1回目)

心に弾を受け続けた
でも撃ち返す
今日は恥も跳ね返す
バリケードを破り 太陽へと手を伸ばそう
私たちは戦士
戦うために姿を変えた
でも心の誇りは失わない
居場所はあるはず
輝く私たちのために
(サビ2回目)

私にも愛される資格がある
値しないものなど 何ひとつない
(サビ3回目)

 

この歌詞をよく見ていくと、感動するストーリーの原則が詰まっていることが分かります。

まず感動するストーリーには、「主人公の変化」があります。これはもう鉄則ですよね。この曲のタイトル『This is me』は、直訳すると”これが私だ”ですが、意訳すると”ありのままでいいんだ”といえそうです。このコアメッセージを最初から伝えてしまうと、人は感動できません。じゃあどうすればいいかっていうと、理想の状態=ラストが、ありのままの自分でいいと思えるようになるってことだとすれば、最初はそうは全然思えなかったという、ラストが想像できないある種”真逆の状態”からスタートしないと主人公が「変化する」状態がつくれないですよね。

 

この歌詞はまさに原則どおり。ラストに対して真逆からスタートしています。

私は暗闇を知ってる
言われた”隠れてろ お前など見たくない”
体の傷は恥だと知った
言われた”消えろ 誰もお前など愛さない”

主人公にはつらい過去があり、心に深い傷を負い、闇を抱えていることからスタートします。そして、ここでのポイントは、主人公のスタート地点での状態が頭の中でイメージできないと、聞き手は感情移入できません。なので小説や映画やドラマでは、主人公のキャラクターや置かれている環境、まだ勇気がなくて困難があったらすぐに弱音を吐いて逃げだすような描写を丁寧にします。ただ、そこまで描写に文字数が使えない。むしろ極限まで文字数を削る必要がある。そんな中、この冒頭の4行に、ぼくが「ストーリーでイメージを作るための三要素」と読んでいるエッセンスが入っています。その三要素とは、①背景描写、②心の声、③会話文です。

まずは上の4行が、この歌詞全体に対しての「①背景描写」に当たります。この背景描写で特に大事なのは、最終的に主人公が成長したラストが想像できない”現在の姿”がイメージできることです。このスタート地点=現在の姿に対して、ラストが全然想像できなかった、想像を超えていたという「イメージの裏切り」があることが、感動の条件です。思ったとおりの結末になると、人の感動はそこまで大きく動かないんです。

そして、「私は暗闇を知ってる」「体の傷は恥だと知った」という歌詞が「②心の声」にあたります。最後に「隠れてろ お前など見たくない」「消えろ 誰もお前など愛さない」の箇所が、「③会話文」です。

この心の声と会話文があるかどうかで、どれだけ視聴者が頭の中でイメージできるかが変わってきます。昔友達に自分の体の傷について馬鹿にされてすごく傷ついた、みたいな客観的な描写よりも、「隠れてろ お前など見たくない」と言われたというような”具体的な”会話文があり、そこで私はひどく傷ついたってだけじゃなくて、「体の傷は恥なんだ」って感じたという具体的な心の声があった方がイメージがつきます。

 

そして最初は、主人公はそんなに強くない。

でも心の誇りは失わない
居場所はきっとあるはず
輝く私たちのために

「居場所はきっとあるはず」という部分に出てますよね。絶対にこうするみたいな強い信念を持っていない。つらなかった過去に対して、あきらめずになんとかがんばって希望を維持しているような状態です。

 

でも2番になると、全然感じが変わっています。

心に弾を受け続けた
でも撃ち返す
今日は恥も跳ね返す

弾を受けたってのはもちろん比喩ですが、「撃ち返す」と。そして恥も「跳ね返す」と。なんとか一筋の希望の光を探していた心境とは打って変わって、完全に腹が据わっています。戦う覚悟が決まったわけですね。なぜこんな変化が起こったのかが歌詞の続きにあって

バリケードを破り 太陽へと手を伸ばそう
私たちは戦士
戦うために姿を変えた

自分のセルフイメージが変わったわけです。被害者から「戦士」に。そして、一緒に戦う仲間もいる。

 

そして、戦士に姿を変えて立ち向かっていく中で、最終的に

私にも愛される資格がある
値しないものなど 何ひとつない

と確信を持ちます。

サビの部分の

勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私

「傷があっても」、それを後ろめたく思わず、恥だと思ってこそこそ隠れず、欠点も含めて堂々としていていいんだ。そう自ら「許可」を出せるまでに変化しています。

 

つらい過去があった中で生き抜くために、一筋の希望があると自分に言い聞かせるのがやっとだった状態から、自分には傷があっても愛される資格があると確信し、それを胸をはって言えるようになるまで、主人公は劇的に変化を遂げた。この変化が感動を生むストーリーの原則であり、『This is  me』の歌詞の構成になっているってことです。

ここまでの文章を読んでどう思いましたか?だいぶん分析的に書いたので、”小難しいな”と感じてもしかしたらピンと来なかったかもしれません。

じゃあここからは、この歌詞が実際にキアラの変化をどう起こしていったのか?について書いてみます。つまり、「この歌詞とキアラの覚醒との連動性」について見てみましょう。

 

まず前述した、

>前方と楽譜を交互に見て歌うのに変化があったのが、1:29時点。画面右側(キアラから見て左)に顔を向けて数秒歌ったときの表情からすると、その視線の先にいる人たちを見て「様子をうかがっている」ように見えます。


の部分ですが、このときの歌詞は、

輝く私たちのために

です。これまで主語が「私」だったのが、ここではじめて「私たち」になる。この歌詞に連動してキアラの意識も、自分から”周り”に広がります。

 

次の変化点は、1:49時点。

これもすでに書いたように、ずっとマイクの後ろから出てこなかったキアラが会場の中央スペースに出ていくために、初めて「一歩を踏み出した」瞬間です。そのときの歌詞は、

気をつけろ 私が行く

で、これまた「私が行く」という歌詞に呼応して、キアラが一歩を踏み出しています。

 

次の大きな変化点は、2:29時点。


パーカー男子のソロパートから、またキアラのパートに戻った瞬間に、力強く右手にこぶしを握り、強く踏みしめた足踏みをして、声量は今までの3倍以上、いや5倍以上ぐらいかな。そして思いっきり髪を振り乱して方向転換をする。もう完全に自我の意識を置き去りにして歌っていますよね。覚醒の瞬間です。このときの歌詞が、

バリケードを破り 太陽へと手を伸ばそう
私たちは戦士

の部分です。「バリケードを破り」の部分はもう解説はいらないと思うんですが、そのあとの「私たちは戦士」の部分。ここで彼女が髪を振り分けて、テンションが最高潮になり、一種の「フロー」に入っている状態(余計な雑念がいっさい湧かず何かに没入している状態)に見えるのは、「私たち」という歌詞があることで、意識がその場のみんなと完全につながったからじゃないかなと思います。これが「新たな目的の出現」のところで書いたことですね。

 

そして、もう一回大きく変化したのが、3:51時点。


彼女がめがねを外し、ヒューの席の前に行ったと同時ぐらいに、全体のコーラスが終わって伴奏もピアノだけのソロパートに戻った箇所ですね。起承転結でいうと、「転」の部分。(この部分は「転」であることがはっきり分かるために、歌詞だけでなくコーラスのストップで一気に緩急をつけた音の役割がすごく大事でしたが)

とんとんとんと、右手でヒューが座ってる机を叩いて、ヒューに「手を握って!(不安だから)」とヘルプを求めているところですね。冒頭のインタビュー部分で、「歌いながらあまりに怖くなって思わずヒューの手をつかんだ」とキアラが言ってる部分ですね。このときの歌詞は

言葉の刃で傷つけるなら
洪水を起こして溺れさせる
勇気がある 傷もある ありのままでいる
これが私

と何回も出てくる部分ですが、ここまで意識がみんなとつながって自我の意識が完全に外れていたのに、ピアノだけのソロになって急に我に帰ったのかもしれません。意識が「私」に戻ったんですよね。

で、冷静に一人だけで考えると、キアラはまだこの歌詞であるように「ありのままでいる」と決めきれていない。ほんとでそれでやっていけるのかという襲ってくる不安と、でもヒューが手を繋いでくれて、何も期待がなくジャッジしない目で見つめてくれたことでもう一度「勇気」を出すと決める。怖いけど、怖くてたまらないけど、もう泣きそうになりながらその感情をも隠さず、「これが私」って歌ったときに、その入り混じった複雑な感情の間で勇気を出したキアラの気持ちに共感して、ヒューも想いがこみあげてこらえきれなくなってしまう。ってことが起きたわけですね。言葉にできない背景や感情が凝縮されたこの数秒に、この動画を見るぼくたちも心を動かされずにはいられません。

ここまで具体的に書くと、みなさんもぼくと同じように思われたんじゃないでしょうか。この「歌詞」があってこそ、キアラの覚醒があったと。

感動するストーリーの原則について

”映像”としては何が良かったんでしょうか。この映像は記録用にという感じで1カメで取られていますが、もし仮にこれが全体を映す固定での引きのビデオカメラでの撮影になっていたり、もしくは3カメ以上で撮っていてその素材があったとしたら、それを編集した方がより感動するものになったのか。それとも今回は1カメだった”生感”がむしろ良かったのか。この辺は専門じゃないのでぼくは分からなかったんですが、いつか映像編集のプロである坂田さんに直接聞いてみたいなーと。

ただぼくでも分かったことは、2つあって。1つは、ヒュー・ジャックマンの変化について。上で書いたように感動には「主人公の変化」が必要ですが、キアラ以外にヒューも大きく変化していますよね。クライマックスとなった4:07でヒューが、”nnhh”って(←あの声の音をどう表現すべきか分からなかったのでこれになりました)思わず感嘆のため息のような声を漏らして上を見たところ。


ここからヒューも立ち上がって全身でリズムに乗りながら踊る。全体の一体感がさらに高まる。っていうのがラストですよね。これがこの動画のオチです。

 

このオチがで感動するためには、変化の「差」が大きいことが分かった方がいいわけです。その上で大事だったのが、3:04時点からカメラワークです。


最初にヒューだけ映ったときは、ノッてるけどまだ冷静で落ち着いてる感じですよね。そのあと赤い含の画面左手の女性が、「すごくいいよね!」て言うようにすごく嬉しそうにヒューの肩に手を乗せて、ヒューも返す。このときのヒューが、Before1(フリ1)です。

そしてカメラが左側を映したあとに戻ってきたのが、3:26時点↓。


両手を上にあげてノッてますが、まだ背もたれに重心をかけて冷静に見える。Before1に比べると、テンションは上がってる状態だけどっていう感じです。これがBefore2(フリ2)ですね。

カメラがこのテンションが上がりきる前の冷静さを残して”客観的にオブザーブしているヒューの姿”を映してなかったとしたらどうでしょう。このフリとして機能している映像があるからこそ変化のbefore afterを明確に認識できるわけで、フリが「感動するための準備」を無意識的に視聴者の心の中に作り出します。

 

このヒューの変化をはっきりとさせるためのカメラワーク以外にもう1つあるのが、冒頭の監督であるマイケルとキアラのインタビューです。こっちはもう解説しなくても、一緒の原理だから分かりますかね?冒頭を文字起こしするとこうなります。

(マイケル):「ディス・イズ・ミー」を聞いた瞬間から作品を象徴する曲になると分かっていた。だがキアラの生歌はあのとき初披露だった。キアラはマイクの前に出ようとしなかた。
(キアラ) :そうね。
(マイケル):僕は言い続けたよ。”リングに出てこないとダメだ””堂々とありのままでいようと歌っているんだから”とね。
(キアラ) :私は結局プレゼンの日までマイクの後で歌ってた。歌いながらあまりに怖くなって、思わずヒューの手をつかんだ。気づいたら歌い終わってて割れるような喝采を浴びてた。あれは別世界の経験だったわ。
(マイケル):一生忘れられない経験の1つだ。幸運にも撮影してた。

気づきましたかね、上ですでに解説した「ストーリーでイメージを作るための三要素」のうち、今回も①背景描写と③会話文が入ってますよね。”作品を象徴する曲”という位置付けが背景描写で、”リングに出てこないとダメだ””堂々とありのままでいようと歌っているんだから”の部分が会話文です。一応復習として。

そして、キアラの覚醒に対して、この冒頭インタビューの「フリがなくても明らかな変化は分かりますよね。歌い出しで自信なさげだったので。ただ、やっぱりbeforeがさらに覚醒状態から遠かったことが伝わった方が「変化の差」は大きくなります。それをイメージさせるために、監督のマイケルが「前に出ないといけないよ」って練習のときに良い続けても結局キアラは、プレゼン本番(あの動画のとき)まで一回も前に出ずにずっと後で歌ってたこと。そしてその理由が”怖かったから”であることが本編の前に伝わるようにしていると。

これいよって、あの動画を見た人がキアラが怖い気持ちをもったままがんばって自我を捨てて挑戦してる姿に感情移入しやすくなります。この冒頭のインタビュー部分のフリがあるとないとで、オチに対してどれだけ強く感動するかってのはやっぱり変わってきそうです。

 

あとこれはなぜ感動したのかという話からはちょっと逸れる話ですが、最後の「気づいたら歌い終わってて割れるような喝采を浴びてた。あれは別世界の経験だったわ」(キアラ)と、「一生忘れられない経験の1つだ」(マイケル)も、「目線付け」という大事な役割を果たしています。これがないと、『グレーティストショーマン』という映画のビハインド・ストーリーっていうだけでは、視聴者が何を見せられているのかが分からず、この動画を最後まで見ないといけない理由が不明確なので、キアラが覚醒に入る前の時点で、映画の中の曲の単なる練習風景なのかなと思って動画を見ることから途中で離脱しちゃう可能性があります。

でも最初に、こっから残り4分ぐらいの映像は「終わったら拍手喝采で」「別世界のような経験で」「一生忘れられない経験」になったときのことを記録していると言ってることで、視聴者は「別世界のような経験っていう結末は何が起こったのか?そこまで思わせる要素だったのか?」「その驚きの結末に対する変化はどうやって起こっていったのか?」っという疑問と好奇心がわき、その問いの答えを知るために最後まで見てみようという、”最後まで見るべき理由”が生まれています。これもぼくがつい最近、坂田実践道場の映像編集の講義で習った「目線付け」という技術です。(余談ですが、坂田道場とはぼくがプロデューサーとして関わっている、「面白い映像作品」を現役映画監督とガチで一緒に作れる日本初のオンラインサロンです)

ヒューのbeforeが映されていたカメラワーク、冒頭のインタビューが視聴者に与える認知的効果を細かく見てみることで、良い素材があっても、それを活かす「構成」や「編集の技術」があるとないとでは、視聴者がどれだけ感動するかが大きく違ってくるっていうことが分かりますよね。

一番好きなのは「世界観」だった

ただ、さらにまだ言語化できないてない要素があるんじゃないか。そう思って何回も見ました。しつこいですね(笑)。そして実際に、最後に、まだもう1つ要素がありました。これはこの動画を見た人みんなに共通することだけじゃなく、内向型的な部分があるぼくだけが気になったことかもしれませんが。

その要素とは、ピアノの男性と、ヒュー・ジャックマンの2つ左隣にいた男性の存在です。ピアノの男性については、目立つ位置にいて何度も画面に写っていたし、ピアノっていう伴奏の中でも重要な役割を果たしているので、ぼくと同じように無意識的にでもすごく気になったって人もいるかもしれません。


彼もキアラと同じぐらい分かりやすく、曲の前後で劇的に変化しています。ピアノを引いてるときの表情や目線の使い方を見てると、キアラと同じぐらい感受性が高く繊細なタイプに見えます。簡単に言うと、めちゃくちゃ空気を察してしまうタイプ。こういう繊細なタイプが複数人でカラオケに行ったときに我を忘れてノリノリになるのがいかに難しいかって書いたように、ピアノの彼もまさにそういうタイプに見えます。

そんな彼がビフォーとアフターでこれだけ変化していて、感情を露わにできていることに、なんかすごく嬉しい気持ちを感じてしまったんですね。


↑このシーンとかは、最後の方で興奮して立ってピアノを引いています。彼のことも何回この動画見てもついつい注目してしまい、同じように嬉しい気持ちになります。

 

そしてもう一つは逆パターンです。前後でほとんど変化してない人もいて、そこに注目しちゃいます。ヒューの2つ左隣にいた男性は、初めてカメラが画面左サイドを写したときも、そして一番最後にヒューとよの左の女性まで立ち上がってノリノリでリズムを刻んでるときも、ずっと座ったままです。リズムに合わせて頭でノっていますが、4:29時点でも手元の机に視線を落としているので、完全にノリノリではないです。


これがぼくはすごく好きなんです。こういういろんなあり方が「自然に許されてる場」があることがです。これは冒頭で書いた、キアラに対しての「期待がない場」と一緒の話です。

人はそれぞれ違う。感じ方もノリ方も。今はこうだからこうしなきゃみたいな同調圧がない。この多様性が存在できる場。本当の意味でありのままでいてもいい空気、文化が作られていること。そういう「世界観」が見てて一番好きなんです。なぜなら、この場にぼくがいたとして、この男性のような行動をしていたかもしれないと、想像して思うからです。たとえ、心の中ではめちゃくちゃ感極まっていたとしてもです。それだったら素直に気持ちを出したらいいじゃんっていう人の言い分もよく分かる。でも、自分の中で湧いてきた感情を表にうまく出せるときと、表には出さずに静かに自分の中だけで味わいたいときがあるんです。そこまで人には理解されてなくても、どんな自分であってもいいという許可がある場所でこそ初めて、その人の個性が出る。そう強く思っているからこそ、この男性の存在を見たときに感じる「素の自分であることが自然と許されている場」に、すごく共感し感動したわけです。

この映画は売れる前に売れていた

今度はビジネス視点で。大ヒット映画になった要因は何かという観点で、このを見て思ったのは、『グレーティスト・ショーマン』は売れる前に売れていたってことです。

『天才系(アート型)ビジネス〜vol.1 移住〜』というぼくが書いた論文の中で、「人を熱狂させるためには、まずは自分が熱狂することが大事」と書きましたが、まさにこれが実現されている。この映画を見て、救われた人がいっぱいいたと思うんですが、世に出る前に、この映画に関わった人に先に「救い」が起きていたわけです。その奇跡と、それに立ち会ったことから生まれた熱量が、「売れる」という現象となって世の中に伝播していったと思うんです。

そして、ぼくが人のプロデュースをするときに大切にしている、「本当の売り物は何か?」という点でも同じようなことが言えます。『グレーティスト・ショーマン』という映画(作品という一種の売り物)の中では、一貫して「This is me」の歌詞の”ありのままでいよう”というメッセージが重視されているように見えます。もしそうだとしたら、本当の売り物は「ありのままでいようというメッセージです。そしてメッセージというのは、伝える人の確信度合いや生き様が、その強さに大きく影響を与えます。非言語が一番伝わるからです。メッセージを伝える人が、根っこの部分で何を信じ、何を大事にして生きているのかが自然と人に伝わっていきます。

ということは、この映画の本当の売り物がありのままでいようというメッセージであれば、監督を始めとするスタッフ陣、主人公のヒューをはじめとする出演者一人一人が、どれだけこのメッセージの通りに生きられているかという「生き様」が大事ということになります。その関係者全員の「あり方」が、微妙なニュアンスの積み重なりとなって、演技やセリフ以外の部分で観客に伝わっていくからです。

そういう視点でも見ても、やっぱりこの映画は、売れる前に売れていたなと。ありのままでいいとう価値観が文化的に、あのワークショップの場に存在することを感じたからです。チームで作品づくりをする場合、作品の中身の前に、「それを作り出すチーム」にコアなメッセージを浸透させること、そういう場作りをすることがチームを率いるトップにとって大事なんじゃないかと改めて感じました。(余談ですが、アニメ『君の名は』を初めて見たときにもまったく同じことを感じました)

キアラの「天才性」は一体どこにあったのか?

ぼくは天才を

自分から見て真似できないことができて、すごいと思える存在(または部分)

と定義していますが、ぼくから見てキアラは間違いなく天才の一人です。天才性と言えば人は、生まれ持った才能のことを指すと思われることが多いです。でも、ぼくの定義だと「真似できないと思える」状態を生みしているすべての要素が「天才性」に含まれます。

一般的な定義でいうと、キアラの天才性は「歌がものすごくうまい」ってことになる。ぼくは歌についてはまったく素人なので分かりませんが、歌がうまい中でも、特に”とてつもない声量と高音領域が出る”っていうのが彼女のなかなか真似できない部分とされるのでしょうか。

でも、本当にすごさはどこから来ているか。彼女のこれまで歩んできた「歴史」が間違いなく大きな影響を与えています。例えばトップモデルのような体型で、誰から見ても羨ましがられ憧れの的になるような美人な外見の歌手で、キアラと同等の歌唱力を持っていて、この曲を歌っていたとしてぼくたちは同じように感情移入できたでしょうか。なんの前情報もなく歌っている姿を見るだけで、歌い手の歩んできた人生について想像してしまうでしょうか。

ぼくの答えはノーです。「This is me」という曲は、歌い手として間違いなくキアラを必要としていた。もし仮に70億人全員をオーディションにかけて厳正に審査をしたとしても、キアラが選ばれたんじゃないかと思うぐらいに。逆にキアラが他の曲を歌っていたとして、同じように感動したでしょうか。これまたそうとは言えないという答えになる気がします。

つまりキアラの究極的な天才性は、「This is me」という曲を歌うことで人の魂を揺さぶれる力だと言うことができそうでせす。つまり、この曲の歌詞とどんぴしゃで連動する「傷つく出来事により、自分が自分のままでいいと思えない過去があった」ということと、「卓越した歌唱力」の両方が組み合わさることで、キアラの天才性が”70億人で誰も真似できない”ぐらいの強さに昇華されたってことです。ぼくは、過去つらかった経験や葛藤を重ねたことでも、今はプラスの何かに使えるもののことを「葛藤資産」と呼んでいます。キアラの場合も葛藤資産と才能がマッチする場を見つけたことで、天才性がビックバンのように爆発したんじゃないかと思います。

 

のちに、キアラはまさにこの曲で、第75回ゴールデングローブ賞主題歌賞を受賞するわけですが、映画がブレイクしたあとのインタビューでこう答えています。

「このキャラクターを演じる限り、強い人間にならなくてはと思ったけれど、私はそんなに強くない。だから、若い女の子たちがこの曲を歌ってSNSにアップしてくれているのを見ると、とても嬉しいんです。私が自分自身を信じられないときでさえ、彼女たちは私を信じてくれている。そのことに毎日感謝しています。この曲の歌詞にもう1度耳を傾けなければという気持ちにさせられるわ」

“これが私!”と自己を肯定する「This Is Me」は、疎外感を感じている人々を勇気付けるが、出来上がった曲を聞いたセトルは「歌うのが怖くなった」と本音を吐露する。「この曲や歌詞、それが映画に与えている影響を考えると、手に負えないと思ったの」「まだ、今日になってもこの曲を歌うのは怖い。おそらく、この先ずっと怖いでしょう」。そんな重圧を感じながらも、「それはしょうがないこと。この曲はそれほどパワフルで、私の人生を変えた曲だから。本当に歌ってよかったわ」とほほ笑む。

〜映画.com「キアラ・セトル、人生を変えた曲「This Is Me」がくれた“最高の贈り物”」の記事内より引用〜

これを読むとさらに、キアラがいかに自分に自信がなかったのかがさらに分かりますよね。2011年にブロードウェイデビューするものの、まだ社会的にはまったく有名でもない段階での、『グレーティストショーマン』という映画でのかなり大事な役割への抜擢。

製作陣は彼女の才能を見出しているものの、本人はまだ自分に、そこまでの才能があるという「許可」を出せていなかったわけです。ただこの自己信頼の不足はキアラに限った話ではなく、人が天才性を発揮していくプロセスにおいて、多くの人がまずはそこからスタートします。「周りからの期待・評価 > 自己信頼・評価」っていう構図が生まれている状態ですね。

天才性を発揮できるかどうかの鍵は「許可」にある

つまりまとめるとこういうことです。天才性を発揮できるかの一つの鍵は、生まれ持った才能や、頑張って出したすごい実績や、人よりも優れている能力ではなく、その人が一番人に話したくないコンプレックスや欠点も”含めた本当の自分”に許可を出せるかどうかにあるってことです。大事なのは実は”やり方”ではなく、自分の「感情に向き合うこと。そして、嫌な部分を含めて、今ある自分を信じれるようになることです。

ただこれがなかなか難しい。何度も挫折しり傷ついた経験がある人ほど、人からどれだけ褒められても自分の可能性を信じようとしない。自分はそんなことをできる人間じゃない。そう思っていた方が、また失敗して傷つくリスクを避けられるからです。自分を安心安全な場所においておきたいっていう人間としての防衛本能が働いているわけですね。

なので本人が自分の天才性を発揮できるようになるためには、才能を見つけ出すだけでなく、「安心安全な場」を提供することが必要です。安心を感じて初めて防衛本能が、「一旦自由に動いていいよ」ってなる。つまり、

・安心安全の確認→天才性の発揮

ってことになります。

安心安全を確認できたら、はじめは恐る恐る一歩を踏み出す。キアラが様子を伺いながらちょっとずつ会場中央に進んでいったように。まだ自信はないから不安や恐怖の方が大きい。でもそこでまず最初に「小さな成功体験」を積む。それでもまだ自分にはできないっていう気持ちの方が強い。そこで、自分がもっと力を出すべき「新たな目的」ができる。それによって動機が明確になって、本当の力をはじめて出してみる。そのときのパワーに自分自身でも驚く。こんなの初めての経験だから。もちろんまだ怖さが消えたわけじゃない。でも、もしかしたら、もしかしたら、自分は否定してきたけど周りがずっと自分にそう言ってきたように、「自分には人には真似できない天才性がすでにあり、その力を解放できるとすごいことになるのかもしれない」って思い始める。

この、人が自分の可能性を”信じ始める瞬間”のことを、ぼくは「beginning to  believe」と呼んでいます。本当の意味での覚醒がはじまる瞬間です。その前後では世界が一変します。自分が思う自分も、人から見える自分も。beggining to believeの瞬間は、何十年に一回しか見れないなんとか月食とかなんとか流星群のように、「奇跡」といえるような場面です。そこに立ち会えることに、他の何にも変えがたい喜びを感じるから、ぼくはずっと今みたいな仕事をしてのかなと思います。そして主役はぼくじゃなくていいので、「触媒」として機能し、人がありのままの自分を受け入れ、自分の可能性に許可を出せるようになってほしいんだと思っています。

天才性を開花させるプロデューサーという仕事の核

やっとこの記事の総括です。冒頭で書いたようにこの動画を題材にしてここまで徹底的に考察を重ねたのは、キアラにかけられた人を覚醒させる「魔法の正体」と、何回見ても飽きずに感動できるこの動画の中に詰まっている「感動を生むメカニズム」を解き明かしたいと思ったからです。そして、この動画の中に詰まっている要素を一つ一つひろいあげて言葉にできたとしたら、ぼくがこれまで極めて属人的に感覚的にやってきた、プロデューサーとして天才性を開花させて覚醒に導く関わりがもうちょっと「見える化」できて、今後より意識的に自分の「果たすべき役割」を果たせることにつながりそうと直感したからです。

この動画を100回近く見た結論。それは人を覚醒させる方程式みたいなものはないし、こうすれば人は感動するといえるようなテンプレートはないってことです。人は一人一人大きく違うし、いつ”そのタイミング”が来るかは誰にも分からないからです。それまでは、ぼくたちにできることは、期待しぎずに見守り続けること。「待つ」ことなのかなと。「あなたのことをぼくは覚醒させられれますよ」みたいに思ってそうな人がいたとしたら、ぼくだったら、主体が相手にあってぼくに主導権がなさそうで、余計に心を開けなくなっちゃいそうと思うからです。だから方程式なんてものはなくていい。人が感動するテンプレートなんてものを作ったら、もう次の日からはそれが「予想通りに」なって、予想を裏切れない分、感動できなくなるだろうし。

 

それでもここまで分析してみて、自分の仕事の”ど真ん中”に何がありそうなのかは見えてきました。それは奇跡のような「一点」を見つけることです。

一点とは、キアラにとっての『グレーティスト・ショーマン』という舞台。「This is me」という天才性が最大に発揮される切り口。触れた人が、”神がかった姿”に心を動かされ、魂が揺さぶられ、その後の人生に渡って影響を受けるような瞬間のことです。一点突破で、その人を取り巻く人の印象を変えてしまえるようなそんな「一点」を見つけ出し、本人がその点を通過するのを心の中で応援しながら待ち続けること。それがぼくがやっているプロデューサーと仕事の核なのかなと。

天才のプロデュースにおいて、多くの人が作品や商品の中身が大事だと思われるんですが(それはもちろん大事なことは言うまでもないですが)、その前に「人のものの見方」を変えることがものすごく意味があるんです。天才は初めてその評価を得る”直前”までは、ありふれた普通の人や変わったやつや落ちこぼれと思われてるんです。詳しくは論文に書きましたが、ゴッホが死後、”耳を切り落とした”という逸話が流布されることで、圧倒的な孤独の中で絵に向き合いながら若くして亡くなった画家という「認識」が徐々に広まり、人がゴッホの作品を見るときの”見方”が変わっていくことで、彼が「孤高の天才」としての地位を得たように、人のものの見方が作品自体に対する価値に影響を与えるわけです。

つまり実態としての商品ありきではなく、イメージが実態の価値を大きく変える。今回の動画を見た前後では、不可逆的に他の曲を歌っているキアラに対しても「見方」が大きく変わるように。だから、ぼくが関わる人たちには、まずはぼくが「これだ!」って思って興奮できる点を捜し続けること。見つかったら、その世界の見方を一変させる一点を表現できる「舞台(表現媒体)と切り口」を作っていく。ってことをこれからも、もっと意識的にやっていこうと思いました。

 

2万字以上あるこの記事を、ここまで読んでいただい方がいるとしたら嬉しいです。そしてぼくと同じように、自分に活かせる何かしらのインスピレーションを得たっていう人がいてくれたら嬉しいな。いつも通り「感想」や「シェア」は大歓迎です!!(感想はSNSのコメント欄かぼくのメルマガへの返信にでも)

では、また!(これの4倍のボリュームがあるけど、面白いはずだからピンときたら下に書いてある「論文」も読んでもらえると嬉しいな↓)

 

 

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