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ぼくの恩師

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【以下転記】2022/7/25のバックナンバー

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こんばんは、やまけんです。

今日はちょっと懐かしい話をしようかと思います。
ぼくの「教育観」を形作った恩師について。
(また書くのに3時間もかかってしまった。。笑 だからこんな謎時間の配信に…)

「やまけんさんって恩師みたいな人って誰かいますか?」と聞かれたら、間違いなくパッと出てくる人は「波田先生」の言葉が頭に出てきます。ぼくにとっては、「第二の親」って思えるぐらい大事な人。今でも、おじいちゃんになったときに、波田先生みたいな人間の器になれるといいなーというひとつのモデルみたいな存在になっている人です。

ぼくと波田先生の出会いは大学です。ぼくは、神戸大学の経営学部に通っていました。ただ、授業には出た記憶がないぐらい、ほとんど授業は受けていませんでした。高校も授業がつまんなくて嫌いすぎて不登校を決め込んでたぐらいだったので、座って一方的に話を聞くのが耐えられないタイプ。なので、できるだけ出欠が必須じゃなくて単位が取りやすい授業を取って、試験前に友達に教えてもらって単位だけ取るという過ごし方をしていました。

ぼくが、大学に行った動機は人とちょっと違います。そもそも、親は大学に行くことを望んでいなかったからです。おとんは高校中退で、その当時はダンプカーの運転手の仕事をしていました。おかんは、宗教の活動を人生の中心に据えていたので、そこに支障がない範囲でパートをしていました。家の経済状況はいつもかつかつ。なので、お小遣いをもらった記憶がなく、高校のときは校則を破って、自分で小遣いを稼ぐために田舎のスーパーでレジ打ちのバイトをしていました。お金のことで親はよく喧嘩をしていました。怒声を聞くと心がぎゅっとなって体全体がこわばる。だから家にいるときはいつもどこか緊張していました。それが嫌でたまらなくて、その声を聞かなくていいように部屋にこもってましたし、家はまったくもって安心できない場所でした。お金がないだけでなく、親は仕事でいつもストレスを溜めていました。

そんな家庭に育ったぼくが高校生の頃に考えたことは

  • 将来はお金で困らないようになること
  • 自分が好きな仕事を選べる状態になること

高一のときに「マネーの虎」という番組を見て、社長になったらお金に困らなくなるのかなと思って、いつか自分も虎(社長になる)!と決めました。ただ、現実はというと、学校に行くのが嫌いだから、毎日家を出たふりをして途中で学校に仮病を使って自分で電話して、親が出たころに家に戻ってテレビを見る生活。学校に嘘をつき、親にも嘘をつき、嘘だらけの人生でした。学校に行っても仲良い風な友達はいるけど、誰とも心がつながってない感じ。「本当の自分」を誰に対しても隠しているので、当然のことです。

嫌なことから逃げてるだけの自分が将来社長になんてなれるはずがない。理想と現実のギャップの大きさと、認識しても一向にそのギャップを埋められない自分の弱さを責め続け、もう完全に「闇の世界の住人」でした。愛読書は太宰治の『人間失格』。学校に行って唯一興味を持つのは、ぼくのように心に闇を抱えてそうな人や先生を探して観察すること(笑)。自分がもっと賢くなくて、自分の頭で考えない人間だったら、普通に他の人と同じように学校に行っただろうし、人と違うことにこんなにも悩まなかった。安心できない家庭に生まれたことを嘆き、自分を生きづらくさせている自分の頭の良さを呪っていました。

自分を変えたくて、でも変えれなくて。
自分を変えたくて、でも変えれなくて。

自己嫌悪によって生み出されたガスが爆発寸前まで溜まったことでぼくは決意しました。大学デビューするぞ!と。大学に行って、クソみたいな自分を変えて、社長になれる人間になるんだと。

おとんから、中学ぐらいから「けん、わしらは高校までは行かすけど、大学に行きたいんやったらその先は自分で行けよ」と言われていました。おかんも宗教のことにしか興味がないので、「勉強しすぎたらキチガイみたいになるわよ」と謎の注意喚起をされたことはあっても、勉強しろと言われたことは一度もありませんでした。でも、これからの自分の人生において、「選べる選択肢を増やす」ためには学校に行った方がいい。自分で行くから私立は絶対無理。奨学金をフルフル借りて、公立に行く。社長になりたいんだから、入るなら経営学部。そんな動機で、つまり「クソな自分を変えるために」「ちょっとでも社長になれるような自分になるために」神戸大学経営学部に入ることになりました。これがぼくの動機でした。

もうほんと、ガスが溜まりまくってたんでしょう。「大嫌いな自分を絶対に変える」と、覚悟を決めて大学に行ったので、それはもうロケットを打ち上げぐらいのエネルギーで、自分を変えれそうなことに挑戦しました。

経営について勉強するつもりで大学に来たけど授業に出てみると高校よりもつまんないし、言ってることがちんぷんかんぷんで理解できない。これは授業なんか出てる場合じゃないなとすぐに気づいて、授業以外で「自分を変える」ことにしました。活動の矛先は部活になりました。「社長になる」のと「自分を成長させて選べる選択肢を増やす」ことを基準に考えると

  • 人数が多い部活に入ってリーダーになる経験を積む
  • 論理的思考力やプレゼン力を磨く
  • 選択肢を増やすために英語力を鍛える

のがいいと考えて、ESS部(English Study Society)に入りました。その部活の中でも、英語のディベートという活動に打ち込みました。上記の要件を満たせるからです。英語ディベートっていうのは、一種のゲームで、2対2で対決して勝敗がつきます。年間でいくつも関西での大会や、全国大会がありました。

開始20分前にディベートのお題が出されて、そこからチームで話し合って主張や論理の骨子を作り、それを英語にして7分間スピーチすると。初めてやってみたときは、7分間スピーチのときにフリーズして、一言もしゃべれずにただ顔を赤くしたまま、ストップウォッチが7分のピピピという音をつげるまでもじもじして終わりました。高校のときに英語だけは得意での偏差値は75ぐらいあって得意だと思ってたのに、受験勉強と「話す」のは全然違う回路なんだと知りました。

でも、こんなことでめげません。ここで逃げた先にどんな世界が待っているのかは、高校のときに1000日ぐらい体に刻み込まれているわけです。大嫌いな自分を変えるためなら、どんな苦手なことでも努力する。そう決めていたぼくは、使える時間はすべて英語ディベートの練習につぎ込みました。学費を稼がないといけないので、夜は三ノ宮の「希望軒」という大好きだった豚骨ラーメン屋で、夜の22時から朝の6時までバイト。そっから原付で家まで帰って仮眠して、正午ぐらいに登校して、一緒にチームを組んでいる人と英語ディベートの練習。夜になったらまたバイトに、という生活でした。全エネルギーをその活動に注ぎ込んだので、めきめき「論理的に考える思考回路」と「英語を話す回路」が鍛えらて、英語ディベートがうまくなりました。半年ぐらい経つと、出る大会出る大会ほとんどで優勝するようになりました。人生で初めて「1番になった達成経験」でした。コンプレックスエネルギーを原動力にして、能力的には自分を変えることに成功しました。

波田先生にあったのは、そんな大学生活を送っていた3月の頃。ぼくの1つ上の堀さんっていう同じ経営学部の先輩が、「学部で英語ディベートを使って授業するプロジェクトをやることになったけど、やまけんも一緒にやる?」と声をかけてもらったことがきっかけでした。神戸大学経営学部は、グローバルに対応できる人材を育てることを目的に、交換留学生を多く受け入れたり、「外国書購読」という、英語を使って経営について学ぶ授業がありました。その外国書購読という、「90分×2コマ」の授業の枠を1つ持って担当していたのが波田先生でした。

英語ディベートは、出てもほとんど勝てるの多少飽きていたこともあり、新しいことにチャレンジしたくて授業の運営に携わらせてもらいました。5人ぐらいだったかな、ESSの英語ディベート部からのメンバーが集まって、180分かける全13回の授業を波田先生と一緒に作りました。ただ、その年は、メインは先輩がやっていたので、自分は1メンバーとしての関わりでした。現役の大学生でありながら、大学で授業ができるという経験は不可は高かったけど刺激的で、ものすごく成長できるものでした。

翌年になって波田先生から、「山田さん、今年は山田さんがリーダーやってくれるといいなと思ったんですがどうですか?」と言われて、2つ返事で「やりたいです」と言ってリーダーをやらせてもらうことになりました。このときの先生のぼく(たち)に対する関わりが、その後のぼくの教育観を方向づけることになるとはまったく予想もしていなかったでした。

外書購読の3時間×全13回の授業を自分で設計と運営をさせてもらうことになったのは良かったですが、この授業への大学の風当たりはきついものでした。まず、大学における波田先生のポジションが弱いのが1つ目の理由。波田先生は40代まで神戸製鋼という会社で働いていましたが、途中から大学に講師に採用されるという王道ではないルートで特命准教授をやっていました。普通の教授陣の主軸は研究と論文の発表です。学会で地位をあげることが集中すべき仕事で、学生に教えるのはサブの仕事です。学生から人気が出ても出世できないからです。ただ、波田先生には大学での出世みたいなことにはまったく興味がない変わった人でした。それよりも、全体のことを考えて人がやりたがらないことをやることが大事だと考えていました。上で書いたように、経営学部は特に多くの交換留学生を受け入れてましたが、専門の世話役がいない状態。教授陣で、交換留学生の世話をしたい人なんていません。そんなことをしてたら肝心の研究の時間が減ってしまうからです。

誰もやりたがならいんだったら、自分がやるしかない。そう思って、波田先生は、交換留学生の世話役を勝手出て、「なんか困ったことがあったらいつでも私の部屋に相談しにきなさい」と言っていました。困ったらノーアポで、とんとんって部屋をノックして訪問したらいいなんて教授も他にはいませんでした。これはぼくの予測ですが、他の教授陣からは「波田先生は論文も書かずに、交換留学生の世話ばっかりやって」と、割と冷ややかな目で見られていたんじゃないかと思います。そんな状態なので、あえて言うなら、教授陣の中での地位は最下層です。それでも波田先生はそんなことは一切気にせず、他の人がやりたがないことは自分がやるしかないと言って、淡々と留学生の相談に乗り、ときにはご飯に連れていって面倒を見てあげていました。

波田先生のそのポジジョンの上で、「学生に授業をやらせる」なんて、非常識なことをやってるわけですから、風当たりが強いのもある意味当然です。ここでも波田先生は、そんな外野の目は気にせず、自分の信頼を貫いていました。先生は自分が大学時代にESSで英語ディベートをしていた経験と、神戸製鋼のときに海外赴任で事業所長みたいなことをやった経験がありました。海外赴任のときに確信したのは、英語が話せるかどうかが大事じゃない。自分の考えを論理的に組み立てて、相手と議論や交渉ができなければビジネスなんてできない。この経験によって英語ディベートという手段を使うことが、グローバルで活躍できる人材を育てるという主旨ににおいては有効だと考え「外書購読」に英語ディベートを持ち込むことにしました。教えるんだったら、現役でバリバリやってる学生が授業をやった方が、「同じ立場でこれぐらいやってる学生がいる」っていうのも刺激になるだろうというのが波田先生の考えでした。他に学生に授業をやらせてる事例がなくても、そんなことは関係ない。本当に意味があることをやるべきというのが、「企業界という外部」から来た波田先生特有の考えでした。

ここからがポイントです。そんな風当たりが強かったら、いくら学生に授業を任せると言っても綿密に打ち合わせや報連相をさせて、授業のクオリティをコントロールしようとするもの。ただ、波田先生のマネジメントは「その真逆をいくもの」でした。

リーダーを受けたいことを伝えたときに、波田先生はぼくにこんなことを言いました。

授業は山田さんがいいと思うように自由にやってもらって大丈夫です。運営メンバーを誰にするのかも、授業をどんな風に進めるのかも任せます。去年の堀さんがやった形式を踏襲してもいいし、大きく変えても大丈夫です。なんかあったら私が全部責任は取りますから

何をやってもいいという言葉を受けて、ぼくは内定先が一緒だったメンバーに声をかけました。一人は同じ神戸大学ESSだけど別の学部。ただ、もう一人はESSではないし、大学は同志社でした。内定先が人材教育のコンサルティング会社だったので、教育について同じ志や熱量をもったこのメンバーでやるのが一番いいものができる。そう思って、このメンバーにしました。学生が授業を仕切ることですら珍しいのに、他大学の学生が講師をやるなんて異例中の異例です。そのことを波田先生に伝えても「わかりました。まあ自由にやってください。私は責任だけ取りますから」と。

ここまで重要なことを、全部自分たちで組み立てていいと言われたので、やる気は最大限に達しました。ただ、セミナー(授業)を組み立てた経験なんてないので、今の力量と比べると100分の1ぐらい。情熱と理想だけが先行して、危なっかしいったらありゃしない状態だったと思います。そうにも関わらず、「で、どんな感じになりそうですか?」と報告を求めることもない。

自分で組み立ててやった初回の授業。毎回授業後にアンケートを取るという去年はなかった仕組みを導入することにしましたが、アンケートを見て、結構落ち込みました。それは社会人で留学経験もある30代の女性の大学生が混ざっていたんですが、その人から遠慮ない率直なダメ出しがつらつらと書かれていたからです。内容は覚えてないですが、「このままだと学生による遊戯感がぬぐえない」ぐらい、厳しいことが書かれていた気がします。

ただ、落ち込んでる暇はありません。また1週間後には3時間の授業です。すべてのアンケートに目を通し、ネガティブな意見があったことをつぶせる方法を考えて、進め方を変えした。それでやってみて、またアンケートをもらう。その繰り返しをしていくうちに、段々ネガティブな意見がなくなりました。最終回の授業では、最初に強烈なダメ出しをしてきたその女性が「素晴らしい授業になった。正直こんな風に改善されるとは思ってなかったです」みたいな感想が書かれていて、嬉しい気持ちになりました。あとで波田先生が教えてくれた話によると、教務が取った授業の満足度を聞くアンケートでは、その学期の授業の中で一番満足度が高い授業になっていた!とのことでした。

強烈なダメ出しをされたときも、波田先生のスタンスは一緒でした。「この人は社会人の目線で斜めから見てるからなかなか手強いですね」と笑っているだけでした。とりあえず初回お疲れ様ということで、ご飯に連れていってくれました。普段金欠で、和民とか魚民みたいな安い居酒屋しか行けないので、大人な雰囲気でおいしそうなメニューと飲んだことがない日本酒が並んだ店で、頼みたいものを頼んだら元気になりました。ただ、次にご飯に連れていってもらったときに、「山田さん、なんでも好きなものを頼んでもいいですよ。ただ、ここからこっちの日本酒はダメです。すごいお会計になるので」という、禁止ルールが出ましたが(笑)。

ぼくは節約のために昼ごはんは抜くことが多かったです。でもお腹が空いたときに、波田先生の部屋の前に行って留学生とか誰かが相談してないことをくもりガラス越しに確認すると、とんとんとノックして「山田です」と言って部屋に入れてもらいました。ちょっと相談ですという体をとってはいましたが、狙いは先生が冷蔵庫から「山田さんお腹空いてるでしょ」と言って出してくれるヨーグルトやお弁当でした(笑)。なので、先生はぼくにとっては「空腹を満たしてくれる人」という位置づけでした。

先生がぼくにアドバイスをすることはほとんどありませんでした。ただ、1回半年の授業の中間地点ぐらいになったときに、「山田さんちょっとご飯に行きましょうか?」と個別に声かけをいただいてご飯に行きました。ご飯に行ってからは先生は、「最近も妻にこんな風に注意されてね」みたいな、自分が怒られた経験についていろいろと話をしていました。ぼくは適当に相槌だけうちながら、話半分でおいしいご飯を堪能していました。帰り際に先生が、「まあ山田さんは今の調子でがんばるのはいいけど、もうちょっと周りを頼るのもいいのかもしれないですね」とボソっと言われました。普段こういうアドバイス的なことを言われることがほとんどないので、その言葉がずっと頭に残り、その後どういうことだろうと長い間考えました。自分が一人突っ走りすぎて、チームメンバーとの情報共有やみんなの頑張りを労うことがうまくできてなかったことに気づいたこともそうだし、先生が奥さんに怒られた話を次々とするときは、自分に伝えたいことを自分の失敗談というスタイルで話すという高等技術を使っていることに気づいたのも、だいぶん後になってきてからのことですが。

ただ、

ーアドバイスは少なければ少ないほど、1つのアドバイスの価値があがるー

という原則は、体感として大きな教訓になりました。

一才の報連相すら求めずに、自由に授業をやらせてくれた波田先生には、ものすごく感謝していました。ただ、普段しゃべっていると、話がむずかしくて長いので、「授業で波田先生が話すと満足度が下がるから、できるだけ先生が話す量が5分10分ぐらいになるようにしよう」とチームで共有するような感じで、生意気小僧だったぼくは先生のことを少しナメていました。めちゃくちゃ感謝はしている。でも仕事ができる人ではないと思っていたんですね。ああ、なんて調子に乗ってたんだ・・・

なので、先生の本当の偉大さに気づいたのは、社会人になってから3年が経っときのことです。その頃に、人の個性を活かすマネジメントに興味が出てきて、天外伺朗さんという人が書いた『マネジメント革命』という本を読んで、衝撃を受けました。

天外さんはソニーでコンパクトディスクやAIBOの開発などを成功させて役員にまでなった人ですが、個性を成果に結びつけるには、「長老型マネジメント」が必要だという主張でした。長老というのは、ネイティブアメリカンの長である長老から来ていて、一切のコントロールを手放しながら全体の中で精神的な支柱のような存在になることが、メンバーが個性を活かし情熱的にイノベーションを起こす組織を作ることにつながると言っていました。

長老とは「空気のような存在」である。放任ではない。管理しないし、滅多に口は出さないけど、しっかり見守ってはいる。メンバーに興味関心を持たずに好き勝手やらせる放任型とは似て非なるもので、愛を持って見守るけど管理や介入は最小限にとどめる。「徳」でチームをまとめる。ただ、組織の先頭に立つ有能なリーダーのようなカリスマ性や存在感は発揮しないので、「空気のような存在」になることが多い。これを見た時に、すべてがつながりました。

↑穴が開くほど何回もマーカーを引いて書き込んで読んだ

波田先生はまさに、ぼく(たち)にとって「空気のような存在」であり、「長老そのもの」だったからです。いつでも責任はとって守ってくれるという安心が担保されながら、自由に挑戦させてもらっていました。先生がぼくたちを管理していたら、初回授業のこっぴどいダメ出しは食らわなかったかもしれないけど、おそらくぼくはあそこまであのプロジェクトにコミットできなかったし、結果として学部で一番の満足度が高い授業にはならなかっただろうと思います。

ぼくは、波田先生の能力を過小評価していました。先生は、「存在感を薄める」ことを技術として確信犯的にやっていた。だから、アドバイスも自分の失敗談を話すという間接的な方法でやろうとしていた。このマネジメントスタイルを可能にしているのは、「人間性の高さ」だったわけです。

自分で自分を満たすことができているから、マウントを取るどころか学生に逆にマウントを取らせることができる。自分にとって本当に大事なことが何かをわかっているから、外野の批判的な目や声があって、ブレずに信念を貫ける。そのことに気づいてから、ぼくもいつか先生のように、人の個性を最大限に引き出すために、空気のような存在になれるぐらい人間的に成長したい。ただ、まだ自分が自分の存在感を発揮したいときに我慢して存在感を消しても本質的には意味がないので、いろんなことをやりきった上で60歳か70歳か80歳とかで、先生みたいな成熟した人間になれるといいなと思いました。これに気づいて以降、「どれだけ一流になっても、マウントを取りたがる時点で人間的には二流」というのがぼくの教育観における指針になりました。

卒業してからも、関西に帰るときは、先生のところに顔を出して、ご飯に行ったりしました。話を聞いていると、数年で大学内での先生のポジションは「大富豪における革命後の3」のように逆転しているようでした。学部長だったりいろんな人から、いろんなことを相談していました。もちろんアカデミックな文脈で地位があがったわけではありません。みんながやりたがらないことを波田先生が巻き取ってくれるお陰で、自分たちがやりたい研究活動に集中できるし、学部が滞りなく回る。「全体」のことを見ると、波田先生の役回りには感謝しかないと他の教授先生方が気づいていったようでした。「人間性、徳による革命」です。

その後先生は、定年で教授職を退任されました。先生は、病気で年々滑舌が悪くなって、かなり集中して聞かないと何を言ってるかわからなくなっていましたが、組織拡大でメンバーが増えてくるタイミングで「会社の顧問」になってもらいました。空気のような存在でいながら、たまにぼくやメンバーと対話をしてもらう役として。お金がなくて500円の弁当代ですらもったいなかったときにいっぱいご馳走してくれた恩を、こういう形でちょっとずつ返せるようになったことは、ぼくにとっても先生にとってもとても嬉しいことでした。

事業が傾いてホンモノ経営塾を辞めたタイミングで、先生の顧問も終了せざるを得なくなりましたが、そこから復活してから先生に電話をしたりメールをしても返信がありません。今もお元気にされてるかどうかはわかりませんが、いつかまたお会いしてお礼と、「ぼくも復活して元気にやってますよ」ってことを伝えられると嬉しいなと思っています。

ぼくは今やってる『天プロ』では、メンバーととにかく一緒に飲んだり、語ったりしますが、「教えたり」「相談に乗る」よりも、いっぱい話を聞くようにしています。ぼくが教える立場で固定され、「やまけんさんみたいになりたい」と憧れられているうちは、その人の個性は最大限には引き出されないからです。とにかく「フラットな立場での対話」が大事だと思っています。自分が考えていることや感じていること、自分の好き嫌いについていっぱい話していくうちに、自分の頭が考える癖がつき、自分の中で哲学が育ってくると思っています。

最初はぼくに憧れて天プロに入ってくることがあっても、関わっていると主語が「私は」になっていきます。ぼくはこの現象のことを最近、「憧れのバトンタッチ」と名付けましたが、主役をぼくからその人に移行することができてはじめて、その人の個性が解放される準備ができたことになります。

ーいつでも教える立場に甘えていてはいけないー

それを教えてくれたのは、間違いなく波田先生です。ぼくが、他のコンサルタントやプロデューサーよりも、その人の個性を引き出すことに長けているなら、その理由のひとつは、人を型にはめず、人を評価せず自由にさせたときに「本人の中で何が起こるか」を原体験で知っていることです。短期的には、自分で考えてトライする分、うまくいく方法を真似するよりも失敗が多くはなって落ち込んだり傷ついたりしますが、長期的にはその人しかできない強い個性が表出化していくことを確信しているからです。

長くなりましたが、天プロ5期を来月からスタートするに当たって、「ぼくがものすごく大事にしているものは何か?」「それはいつから大事にするようになったのか?」という、自分の哲学のルーツを思い出していったときに、そこには波田先生の存在があったので書いてみました。

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